かつて「幸せ」とは、家を建て、家族を養い、定年まで勤め上げることだった。 努力すれば報われる。頑張れば誰かが見てくれる。 そう信じて、俺たちは汗を流し、時には心をすり減らしてきた。 https://youtu.be/Cprd1wQPCDE けれど―― 気がつけば、その“報われるはずの明日”は、どこか遠くへ消えてしまった。 定年を迎えた仲間の顔に、誇らしさよりも空虚さを感じることがある。 「これで終わりか」 そう呟いた声の裏に、何かを失ったような寂しさが滲んでいた。 便利になった世界。 AIが答えを出し、SNSが評価を数値化する。 だけど――本当に幸せって、そんな“効率”や“正解”の中にあるんだろうか。 昔は、夕暮れのビール一本で満たされた夜があった。 誰かと笑いながら歩いた帰り道に、確かな幸せがあった。 あの感覚を、俺たちはいつの間にか置き忘れてしまったのかもしれない。 これからの時代、幸せは「所有」ではなく「共有」かもしれない。 モノでも、地位でもなく、心が触れ合う時間こそが、価値を取り戻す。 「幸せの定義を、もう一度考える時がきた」―― それは、過去を否定することではない。 むしろ、ここからの人生をもう一度、自分の手で選び直すこと。 俺たち中高年は、まだ終わっちゃいない。 “幸せ”という言葉の意味を、もう一度、自分たちの物語で書き換えていこう。
ある日さ、俺がいつものカフェでまったりしてたんだよね。そしたら、40代くらいの人妻っぽい感じのおしゃれな女性が近くのテーブルに座ったんだ。ちょいちょい俺の方に目が合うんだけど、別に気にせずにコーヒーを飲んでたんだよ。
で、しばらくすると、「カフェラテ、飲ませてあげたい」とか言い出して、俺にカフェラテをオーダーしてくれたんだ。状況がわからなくてビビったけど、まぁタダのコーヒーだし、ありがたく受け取ったよ。
でもね、そのカフェラテがめちゃうまくて。何か特別な味がしたんだよね。女性は「どう、お味は?」って微笑んでもう一杯持ってこようとしてくれたんだ。でもね、その時、俺の背筋がゾッとしたんだ。
だってよ、俺がコーヒーに夢中で気づかなかったけど、店員さんがその女性に「初めてのご来店ですよね?」って聞いたのに、女性は「いいえ、常連です」と答えてたんだけど…。店の奥には、ずっとずっと前に亡くなったはずの常連だった人妻の写真が飾られていて、その女性がそっくりだったんだよ。
俺はゾッとして、すぐにカフェラテをテーブルに置いて店を飛び出したんだ。背後から、彼女のかすかな声が聞こえた気がした。「また、カフェラテ飲ませてあげたいわ…」。家に帰ってからしばらく体調が悪くてな…。あのカフェラテが何だったのか、今でも分からないけど、何か妙なことが入ってたんじゃないかと思うよ…。怖すぎるよね。
それからしばらくは、あんまり気にしないようにしてたんだけど、何ていうか、夜になると部屋の隅っこに誰かいるような気配を感じるようになっちゃってさ。
ある日、ふと目が覚めると、そいつがぼんやりと立ってるような気がするんだ。でも、辺りを見回しても、やっぱり誰もいないのな。
そしてさ、最悪だったのは、またそのカフェに行った時。店員さんが「あの写真の人妻は、お客さんと一緒に飲むカフェラテが好きだったんですよ」とにこやかに話してくれたんだ。でももう、俺はカフェラテなんか頼む気になれないよ。あの日から、カフェラテの味が恋しくなるたびに、後ろで誰かが笑っているような気がしてならないんだ。

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